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曹洞宗について

曹洞宗宗祖 道元禅師の教え

道元禅師の教えを、現代語でわかりやすく紹介しています。
※これらの文献に関するご質問は受け付けておりませんのでご了承ください。
無益の事を行じていたずらに時を失うなかれ
『正法眼蔵随聞記』
充実した日々をすごしているだろうか。
ただ年齢だけを重ねてはいないだろうか。
休みともなればなんとなくテレビを朝から晩まで見ている。ということが多くないだろうか。
法句経に智恵ある者たちが怠りなきことを守ることは、あたかも最上の財産を守るようなものである。とある。
他はこれ我にあらず
『典座教訓』
私たちは、ひとりひとり他人にゆずることのできない、かけがえのない人間であると同時に、そのひとりひとりの仕事や分担も、他人にまかせてはならないものである。
すべて修行と心得て、過ごしていきたいものである。
他人にまかせては、自分の修行にならない。
身 初心なるをかえりみることなかれ
『正法眼蔵随聞記』
道元禅師様の「経験が、知識がないからといって気後れすることはない」というお言葉は、われわれの心をふるいたたせる。しかしひと度、チャレンジしたからには「初心」を忘れることなく、「初心」を貫く決意が必要である。
「困難から逃げようとする心が、また新しい困難を作り出す」ことを肝に銘じたい。
眼横鼻直がんのうびちょくなることを 認得にんとくして人にまんせられず
『袈裟功徳』
「裸の王様」というアンデルセンの童話がある。
“王様は裸だ、裸で歩いている”という単純な事実に気づいて叫んだのは子供だけだったという話しである。
「眼横鼻直」、人の眼は横に鼻はたてについている。あたりまえのことである。しかし、この単純明快な真理を、しばしば忘れるのが人の世の現実である。
かならず従来の幣衣へいねを脱落して 仏祖正伝ぶっそしょうでんの袈裟を受持するなり
『袈裟功徳』
ドイツの有名な文学者ゲーテは、「有為な人間は、すべて外面から内面へ向かって自己を教養する」と語っています。
みなさんも仏祖正伝ぶっそしょうでん(=真の教え)のお袈裟をいただいている心ですごせば、日々の生活もいっそう充実するにちがいありません。
まことに一事をこととせざれば 一智に達することなし
『弁道話』
道元禅師様は「一事に専念、事を成就しえずして悟りの智恵を開くことはできない」と述べられている。
「何事も中途半端で終わってしまっては信念など生まれるはずがない」、実に味わい深いお言葉です。
年の初めに、月の初めに今一度このお言葉をかみしめ、一つ事を成し遂げる決意を新たにしてみたいものである。
この法は 人人にんにんの分上にゆたかにそなわれりといえども 未だ修せざるにはあらわれず 証せざるにはうることなし
『弁道話』
仏教の根本精神を端的に表現する言葉が、涅槃経ねはんぎょうの「一切衆生いっさいしょうじょう 悉有佛性しつうぶっしょう」である。
「すべての生きとし生けるものにはみな仏性がある」という意味である。
多少の智識、学歴、社会的地位があるからといって、それを鼻にかけることなく、謙虚に日々学ぶ心を大切にしたいものである。
ただまさに法を重くし 身を軽くするなり
『礼拜得随』
道元禅師様は「まず苦事くじをなせ」ともおっしゃっている。
人のいやがることを進んで行う、一人一人のふとした思いやりがこの社会を明るいものにする。
持戒梵行じかいぼんぎょうは すなわち 禅門の規矩きくなり 仏祖の家風なり
『弁道話』
道元禅師様は、坐禅(座禅)に努める者は戒律を守る必要があるのかという疑問に対して、「戒律をもって清浄な行いをするのは禅門の基本であり、仏陀や祖師以来の伝統である」と断言しておられる。
今の世の中は、自分の好き勝手に生きるという風潮が高まっているが、今こそ五戒の説く意味をかみしめたいものである。
先人くるしみ無きにあら
『正法眼蔵随聞記』
「一朝一夕の故あらず」という諺がある。昨日や今日できたものではない、長い間かかって次第にできあがったものであるという意味である。祖師達磨大師様は、「面壁9年」、世間の常識でも「石の上にも3年」である。
一つ事を成し遂げ指導者と仰がれるのには、血のにじむような先人の努力があるのである。これを仏教では「不退転ふたいてんの決意」と呼ぶ。
口声くしょうひまなくせる 春の田の蛙の 昼夜に鳴くがごとし ついにまたやくなし
『弁道話』
井戸端会議は、地域のコミニケーションを円滑にする面もあるけれども、とかく他人への批判、中傷に陥りやすいものである。「口声をひまなくせる春の田の蛙の昼夜に鳴くがごとしついにまた益なし」というお言葉をかみしめたい。
そして、「人のうわさ」という言葉の暴力が他人を決定的に傷つけることもあることを反省したいものである。
仏道をならうというは自己をならうなり
『現成公案』
あらたまって「仏道をならう」というと、悟りの世界がどこか遠くにあるような錯覚に陥りやすいものです。
しかし、他に求めてえられるものではありません。道元禅師はひと言「自己をならうなり」と力強くおっしゃっておられる。
自分のぬいだ靴やスリッパは揃っているか、身じまいを正し、心を正すことから仏道は始まる。
かならず非器ひきなりと思うことなかれ 依行えぎょうせば必ず証をうべきなり
『正法眼蔵随聞記』
人間は、自分の能力が劣っていることを口実に、いたずらに嘆き悲しみ、はては「前世の因縁が悪いから」と卑屈になったりもする。
しかし、人間のすべてを決定的に運命づける過去世の「悪しき業」などというものはありえない。
世に「大器晩成」という言葉もある。自ら卑下することなく地道に努力すれば、必ず報われるものである。
はな愛憎あいじゃくに散り 草は棄嫌きけんうるのみなり
『現成公案』
人はとかく表面的なものにとらわれやすく奥にひそむ真実には気づこうとはしない。
私たちが見落としやすいこの事実を、「花は人々に愛されおしまれながら散り、草は人に嫌われながらはえるだけである」と語られておられる。
工業優先ということで、反面失いつつある大地のめぐみを今一度見直したいものである。
春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえてすずしかりけり
『傘松道詠』
道元禅師様は御年12歳の時「出家して道を学んで、私の後世ごせを弔ってください」という母の遺言を胸に抱いて比叡山を訪問、公円座主について剃髪得度されました。
古人いわく「霧の中を行けば覚えざるに衣しめる」 よき人に近けば覚えざるによき人となるなり
『正法眼蔵随聞記』
善知識ぜんちしきにめぐりあう功徳をいう。善知識とは最良の師や友と縁を結ばしめること。環境の人に及ぼす影響は、まことに大なるかを私達は感じとらなければならない。
水鳥のくもかえるも跡たえて されども道はわすれざりけり
『傘松道詠』
道元禅師は、仏教では人間は誰でももともと仏性をそなえている。そのままが真実の自己であると教えている。
それなのに、改めて修行して悟りを開く必要があるのだろうか。という根本的な疑問がありました。これをきっかけとして、さらなる修行の旅にでられました。
人と諍談じょうだんするは 自他ともに無益むやくなり
『正法眼蔵随聞記』
人は感情的に「ああいった、こういった、どうも気にいらない」と、なにかにつけ言い争う。自分の長所は過大に評価するが、短所は過小に見えるのが常である。
「からの容器ほど大きなおとをたてる」ことを肝に銘じ、道元禅師のお言葉を味わいたいものである。
得道とくどうのことは心をもってるか 身をもって得るか
『正法眼蔵随聞記』
道元禅師は、「仏道は心で覚えるのか、身体で覚えるのか」ということにたいして、「身をもって得る、体で了解する」と断言しておられる。
表面的な字づらを理解するばかりでなく、なにごとも実行に移し体得し、そこに体験のもつ重みが生まれるのである。
よねあらい まいらするをば 浄米しまいらせよと もうすべし よねかせと もうすべからず
『示庫院文』
御馳走ごちそうという言葉がありますが、これは、食事を用意するためにたくさんの人が走りまわる、という意味であります。
道元禅師は、材料である米や野菜を決して粗末に扱ってはいけないと厳しく戒めておられます。
たとい7歳の女流なりとも すなわち四衆ししゅうの導師なり 衆生しゅじょう慈父じふなり
『礼拝得髄』
道元禅師は「仏法を修行し説法できるお方は仮に七歳位の女子であっても迷っている衆生の慈父である」と語られた。
人はいがいと面子にこだわり、なかなか虚心になれないものである。まさに「学ぶ心あれば万物みな師匠なり」である。
志の浅からぬをさきとすれば かたえにこゆる 志気しいきあらわれけり
『一顆明珠』
不退転ふたいてん:志をたて岩をも貫く固い決意」をもって進めば、おのずから覇気はきとなって現れるものである。
道元禅師様がなによりも「志気」を尊んだその心をくみたいものである。
人みな般若はんにゃ正種しゅうしょゆたかなり ただ承当じょうとうすることまれに 受用じゅようすること未だしきならし
『弁道話』
道元禅師様は、人間みな「般若の正種―仏性ぶっしょう大いなる智慧」を豊にそなえてはいるけれども、ただ正しく認識し受用することができていないと嘆いておられる。
人と生まれたことの尊さを大切にし、明るい世の中をつくりあげたいものである。
学人がくにん第一の用心は 先ず我見がけんはなるべし
『正法眼蔵随聞記』
古くから人々は「塵(ちり)も積もれば山となる」ということわざに学び、身辺を見つめ身を正すことを学んできたのである。
「我見ー自分の思いにばかりとらわれていること」を離れる時、真理をみぬく眼が開くものである。
女人なにのとがかある 男子なにの徳かある 悪人は男子も悪人なるあり 善人は女人も善人なるあり
『礼拝得随』
最近、「女性の社会進出」の是非がしきりに論じられている。反対論の多くは、家事がおろそかになる、子どもの教育に目が届かず非行に走らせるおそれがある、などである。
しかし、働きにでる主婦の大半がローンに追われ子どもの教育費に追われての結果であることを思うならば「関白宣言」などにあぐらをかいているべきではない。せめて妻の苦労を思いやる心をもちたいものである。
誤りを悔い 実得じっとくをかくして 外相をかざらず 好事をば 他人にゆずり 悪事をば 己にむかうる志気しいきあるべきなり
『正法眼蔵随聞記』
「仏作って魂入れず」の例え通り、自らも外見にばかりとらわれて内面を飾る努力はとかく忘れやすい。電車に乗っても席を譲るどころか、人をおしのけても座ろうとする始末、好事を他人に譲り、苦事をなすことは意外と難しいものである。
「耐えてこそ真の生き甲斐が生まれる」という。まず人のことを思いやる心をもちたいものである。
峯の色 たにの響もみなながら 我 釈迦牟尼仏の声と姿と
『傘松道詠』
道元禅師は1223年「正伝の仏法」を求めて中国に渡られました。御年23歳のことです。
諸国の禅林を訪ね歩いた禅師様は、天童山の如浄禅師の室に入り刻苦奮闘の後、「この法は人々の分上に豊にそなわれりといへども未だ修せざるには現れず証せざるには得ることなし」というお悟りをお開きになりました。
こうして1227年、「城邑聚落じょうゆうじゅらくに住む事なかれ。国王大臣に近づくことなかれ。只深山幽谷に居して、一箇半箇を説得して吾宗をして断絶に到らしむることなかれ」という如浄禅師のみ教えをもって帰国され、心情を詩にしました。
坐禅(座禅)はすなわち 大安楽だいあんらく法門ほうもんなり
『普勧坐禅儀』
「方丈さん、そりゃ坐禅(座禅)はいいと思うがそんな暇がないよ」とおっしゃる忙しいあなた、1日たとえ1分でも2分でもかまわない。
端坐して
「1つ邪念が起こらぬ、2つ慈悲心が起こる、3つ外誘をうけぬ、4つ物にこだわらぬ、5つ智恵がでる、6つ五官が静まる、7つ忍耐力がでる、8つ心が清くなる、9つ物に驚かぬ、10信仰が深まる」
と「坐禅十得」を心で唱え、今日一日の行いを省みてみたいものである。
憐れむべし 汝が深愛じんあいする名利みょうりは 祖師そしこれを糞穢ふんえよりもいとうなり
『谿声出色』
今日自分の利益をはかり他人のことを考えようとしない人のいかに多いことか。道元禅師様は「あなたがたが望んでいる名聞利養は実にむなしい名誉やよこしまな利益を望む心にすぎない、もっともいやしむべきものだ」と、厳しく戒めておられる。
「自利」とともに「他利」の精神を忘れたくないものである。
花開けば必ず真実を結ぶ 青葉秋に逢うて即ち紅なり
『永平広録』
「善いことを行い」「こころを浄くする」ために、仏教では正見しょうけん正思惟しょうしゅい正語しょうご正業しょうごう正命しょうめい正精進しょうしょうじん正念しょうねん正定しょうじょうの八正道を重視する。
「八正道」を忠実に実践すれば、道元禅師様が「花開けば必ず真実を結ぶ青葉秋に逢うて即ち紅なり」とおっしゃるように、仏果は得られるのである。
たきぎ灰となりぬるのち さらに薪とならざるがごとく 人の死ぬるのちさらに生とならず
『現成公案』
今この一時を大切に生きる。「無常なればこそ怠ることなかれ」が、仏教の精神である。
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